三州瓦CA研究所 特別研究会
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桟瓦のルーツを考える

千葉大学建築学科教授 安藤正雄
平成12年9月6日
愛知県陶器瓦組合会議室



CONTENTS
はじめに
1.世界史の中でのオランダと日本の関係
2.E・モースの『古いテラコッタ製瓦の形態について』
3.日本桟瓦構法の起源
4.オランダにおける桟瓦の成立
5.日蘭の桟瓦構法の比較
6.桟瓦工法伝播の可能性
7.旧オランダ植民地における瓦・屋根構法
8.総括

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 はじめに
 千葉大学の安藤と申します。本日は工場や作業場見学の勉強の機会を与えていただいたことを本当に感謝しております。また、こうして興味を持って聞いていただける方の前でお話をできるというのは非常に恵まれたことです。本日はどうもありがとうございます。
 さて、オランダと桟瓦の関係というのは、僕が一番最初にインドネシアに行ったのは15年以上も前のことで、オランダにも何度か行っておりますけれど、どうも似ているというようなことは感じておりまして、「何故だろう」と思っていました。
 これに関しては、僕の同級生の深尾という都立大学の先生が一番最初に関心を持っていたんですけれども、ある時に、東大のこれまた同級生である布野修司と一緒に「植民都市の形成と変容に関する研究」というやたらに大きなテーマの研究を始めました。
 オランダには建築学科を持つ大学が二つあり、その一つのデルフト工科大学の図書館にもぐり込んでいましたら、たまたまオランダの瓦の歴史に関する論文をみつけることができました。簡単に言うと、日本の桟瓦よりちょっと早く成立していまして、それがオランダと関連のある世界に広がっていったことを知りまして、このテーマに肉薄できるかなと。
 また我々はオランダ植民地を回る機会に恵まれましたので、じゃあ、知る限りのところを少しまとめてみて、この仮説がどれぐらいのものかということをそれなりに脈絡を付けた上で、皆さんにご判断していただこうというふうになった次第です。
 まずはエドワード・モースという博物学者というか考古学者というか、大森貝塚を発見した人ですけれども、この人が「古いテラ・コッタ製瓦の形態について」という論文を1892年に書いています。僕の知る限りでは、世界における瓦の形態構法の分布というのは、この人が一番広い視野で、早い時期に書いた人です。その話をまずしたいと思います。
 次に日本の桟瓦は皆さんご存知のように、17世紀の後半に近江の瓦師が思いついたものであるという記録があり、これが日本桟瓦の成立に関する一つの定説として流布しているものです。それを少し振り返って、それと関連する瓦、つまり本瓦以外で桟瓦に似たようなものをご紹介して、それを予備知識としてオランダの瓦に移りたいと思います。
 オランダにおける桟瓦の成立というのはデ・フリースという若い、考古学者に近い建築士の学位論文として書いた、オランダの発掘市場を元にした瓦の分類、形状の話をまとめてしたいと思います。
 日本とオランダの桟瓦−桟瓦という意味では同じというふうにしていますが、実はいくつかの点で違うところがあります。それを次に確認したい。どこが同じで、どこが違うか。
それから果たして日本とオランダの桟瓦は何らかの交渉があったのかどうかということを、限られた資料ですけれども、それから考察してみたいと思います。
 日蘭交渉史という記録、今年は日蘭交渉が400年経っておりまして、平戸で倉庫の復元というような事業もありますので、その話をちょっとご紹介したい。
 旧オランダ植民地、日本とオランダは確かに鎖国期間を通じて細く長い交渉の道があったわけですけれども、オランダは世界各地に植民地を持っていました。その植民地で一体瓦に関してはどういうことが起こったのか、屋根の構法に関してどういうことが起こったのかということをもとにして、日本との交渉を傍証したい。
 最後に結論になるわけですが、先に申し上げておきますが、やはり直接的な交渉、ダイレクトにオランダの瓦が日本に入ってきているという証拠はありません。ただ、いろんな形で何らかの情報の授受、伝播ということがあった可能性は否定できない。そこに関して全体のまとめをしたいというふうに思っています。
 現在使われているオランダの桟瓦は、1900年前後にこういう形で定着したものというふうにお考えください(図4.11参照)。プレスで作っております。上に19世紀末の前身のものがありますが(図4.10参照)、Verbeterdeというのは改良されたという意味のオランダ語で、holle panというのは桟瓦というオランダ語です。ですから「改良された桟瓦」というのが19世紀後半に出てまいりまして、それが、Opnieuwというのは更に新しいという意味で、「更に新しく改良された桟瓦」という名前でOVHと言われていますが、これが現在の桟瓦です。
 日本の桟瓦と比べますと形状があまり安定していないようですし、第一に、引っ掛けの突起があって(構法的に違うが)、こんなふうに対角線の隅が切り欠いてある。日本のは四角くなっているんですが、オランダは皆こういう格好をしています。これが大体1500年代の前半に出てまいりまして16世紀を通じて17世紀の頭にこれが標準的な構法になります。この桟瓦構法について、今日私は仮説として、この形のものに関する知識が、何らかの形で日本に伝わったのではないか、というようなお話をしたいと思っています。

図4.10 Verbeterde holle pan 図4.11 Opnieuw Verbeterde holle pan

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 1.世界史の中でのオランダと日本の関係
  まず最初に「オランダと日本の関係」ということで、日本史、世界史のおさらいをちょっとしたいと思います。
 ヨーロッパはちょうど15世紀末。まずインド航路が発見され、世界一周の航路が開発されて、それから新大陸が発見される。1492年にコロンブスがカリブ海の島を発見し、アメリカを発見したとされています。
 アフリカを回ってインドに行く航路が何故開発されたかというと、幾つかの事実があります。一つは地中海、黒海沿いに開発された航路があったのですが、オスマントルコが強大な国家を作り、ちょうど応仁の乱の頃ですけれども(1153年)、コンスタンチノープルを攻め落として、西洋と東洋を分断してしまうというようなことが起こる。そこで、その頃の知識拡大と共に、ヨーロッパが地中海経由ではなくて、直接インドに行く航路を求めようとしたというのが大きな経緯になっています。
 もう一つは、ポルトガルにとっては西アフリカから出てくる金というのが大きな意味を持っていまして、早くからこの辺の航路は発展していくわけです。その後バスコダガマとかマゼランという人たちが行ったりするわけですけれども、ポルトガルは実は東回りの方を早くから開拓してきたんです。スペインはちょっと後になりました。ローマ法王が、「東側の方はポルトガル、西の方はスペイン」という条約を作って裁定をしたわけです。ブラジルは出っ張ってますので、ポルトガルの植民地になるわけですけれども、スペインは西、ポルトガルは東をずっと開拓していっているわけです。
 1500年代の早い時期にポルトガルは、インドとか東南アジアに達しています。植民化の経緯を見てみますと、1500年代全般を通じてポルトガルがまず押さえていると言っていいと思います。
 一方オランダは、オランダという国ではありませんでした。元々はフランドルというところで、中世のある時期からは毛織物で栄えます。国としてはブルゴーニュ公国と言ってフランス北部からオランダ低地地方(ベルギーを含む)の一帯を治めている王国の領でしたが、ちょうど15世紀の末にハプスブルグの一人息子の王子とブルゴーニュの一人娘の王女と結婚し、ハプスブルグと姻戚関係ができます。そこでできた子供が、コロンブスのパトロンであったスペインのカソリック領主のイザベラとフェルナンドの一人娘と結婚しまして、そしてスペイン、ドイツ、オーストリア(スイスを含む)ハプスブルグ帝国が出てきます。
 最初の王様がカルロス五世、あるいはスペインの王様としてはカール五世でカルロス一世なんですけれども、これは1520年代位からです。強大な力でスペインは伸びていきますが、現オランダはその時ハプスブルグの領の一部になります。ちょうどこのカルロス一世の時期というのは宗教改革に差し掛かっていまして、それからオランダもいろんな力をつけてきて、独立を図るんですね。
 結局、オランダの独立というのは戦争が入ったりして非常に長い時間かかりまして、独立宣言をするのは1580年位。実際に独立が成立するのが1612年位なんですね。ですからオランダは国家として成立したのは1600年前後というふうにお考えいただいていいと思います。そこからオランダは強大な海運力をもって世界を制覇していく。オランダは1602年に投資家たちが連合東インド会社という貿易会社を作りまして、それが日本の平戸、長崎にも渡ってくるわけです。
 オランダは、徐々に1600年代頭から旧ポルトガル勢力を追い出しながら、旧ポルトガルが開発した植民地のあらかたを自分たちの植民地にしていくわけです。ただ、あまりプランテーションにするようなことは起こらず、その後に来るイギリスがオランダを駆逐して、オランダに代って支配していくことになります。
 実は、1600年代オランダがインド、その他の海を支配していた時期は比較的短いと言ってもよくて、ちょうど17世紀の中頃、クロムウェルの時代、共和制の時代になった頃ですけれども、その時にイギリスとオランダの3次に渡る戦争の一番大きな戦いがあり、そこでオランダがこっぴどくやられまして、そこからオランダの支配力が徐々に衰えていきます。そしてイギリスの植民地は、例えば1600年代の後半からインドを中心に少しずつ増えていってるんですね。最終的にナポレオン戦争の時に、オランダは一時期ナポレオンの勢力下に入りますし、政体は変わりますし、イギリスがフランスを撃ちのめすと勢力は全く変わりまして、その時以降イギリスの7つの海の支配という基礎が完全に固まりまして、そして旧オランダ植民都市であったところのいくつかはイギリスに変わっていきます。
 だからアジアの植民都市というのは、ベースにまずポルトガルがあって、それからオランダがあって、イギリスが最終的に支配するという形で理解していいように思います。もちろん都市、地域によって違うんですけれど。
 実は1600年の時点では、オランダという国家はまだ成立していません。オランダのアジアにおける拠点はバタヴィア、現在のジャカルタです。ここがオランダ連合東インド会社のアジアにおける拠点なんですが、そのバタヴィア市の建設が1619年。ちょうど日本では徳川の体制が確立して鎖国に至る中間のあたりでバタヴィアは成立しています。
 ところが、日本にオランダ人が最初に来るのはもっと早くて、1600年(関ヶ原)に漂着しています。どうやって来たかというと、こっちにポルトガルがいますし、イギリスとかいろいろいて止められますので、オランダは南米をぐーっと回ってこっちに来る時に、4隻で出たうちの1隻だけ日本の九州・大分に漂着するんですね。そこに三浦安針とかヤン・ヨーステンといったオランダ人が乗っていて、これが、ある意味で徳川幕府にいろいろな情報を与え、その前からキリシタンの問題に頭を悩ませていた幕府に、プロテスタント国家として接するわけです。鎖国の体制になる時にオランダ、イギリスという両プロテスタント国家の船乗りが徳川幕府の近くに残されて、あるいは行って世界情勢を伝えたということが、その後の江戸時代の経済や維新後の日本の進路に非常に大きな影響を与えています。
 いずれにしても、オランダは1609年に平戸に商館を築いています。これはバタヴィアより10年早いんですね。それから諸々のことがありまして、平戸の商館は1639年に潰されて、1641年に長崎へ移転しています。鎖国の完成の時期です。
 バタヴィアが1619年、オランダの他の植民地でいいますと、マラッカはバタヴィアから攻めてますので1641年、鎖国の完成の時期にはオランダのものになっています。それからセイロンが1655年と非常に遅い。もっと驚くことにケープタウンも、最初は単なる中継地点としてもう少し早く足を踏み入れているのですが、1660年代にバタヴィアからジャワ人の職人労働者を連れていって、調査、建築をしてます。
 こう見てみますと、17世紀、オランダのアジア進出の中での日本との関係は、意外に早い。それからジャカルタ、バタヴィアが非常に大きな意味を持っています。そして、そこにいくのに鎖国という重要な日本の時期を決定した。それから後に申しますけれど、日本桟瓦が西村半平衛によって思いつかれたのが1674年ですから、この時期は非常にクリティカルな関係がある。オランダの桟瓦が1530年か40年に成立したとして、およそ1世紀後に日本とオランダの交渉が頂点に達して、バタヴィアがあり、そして、それから4分の3世紀あるいは半世紀を経たところで日本に桟瓦が現れたという、一つの時期的なヒントがある、ということが言えるわけです。

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 2.E・モースの『古いテラコッタ製瓦の形態について』
  もう一つ、地理的なことですけれど、エドワード・モースによる瓦の形状分類(図2.1)がありまして、それにどういうふうな地理的分布があるか示してあります。
 日本で言いますといわゆる本瓦、オスとメスがあって、互いに連ねるようなものを「標準型」あるいは「アジア型」とモースは言ってました。例えばA:標準型の1は日本の本瓦ですけれども、東洋の古代のギリシアや中国やインド。3番目の方は東洋、地中海、その他。4番目はギリシャ、ローマですけれども、平瓦でかなり大きなものですけれども、これに上から笠木をかぶせるようなもの。これを標準型として世界中にあるというふうに言ってるわけです。
 ここでBの桟瓦型というのがありまして、ここにいくつかサンプルとしてありますけれど、実は1と2の区別というのは僕らが見てもはっきり分かりません。同じものとして見ていただいていいと思うのですが、1と2、それから3のようなもの。それからCの平積型というのは、スレートないしは木製のシールのようなものですね。要するに、互い違いに敷き並べていくような、石とか木材を葺き上げるもので、これはあちこちにあるということです。従って、ここで問題にしたいのはBの桟瓦型というものですけれども、これを19世紀の末に世界の各国を旅したモースは、これが存在するのはイギリス、ベルギー、オランダ、スカンジナビア、日本、ジャワと書いてあり、その他の地域にはないということを言ってます。後で申し上げますけど、オランダがここに相当するんですけれど、オランダ低地地方には石はないんです。街は川の河口に堆積した所にあります。防火の意味においてレンガ、瓦という構法が中世以降、標準化しました。
 アムステルダムはハンザ同盟の都市ではありませんでしたけれども、この低地地方一帯、旧ハンザ都市連合の近辺には桟瓦の分布があります。例えばウルエンとかベルゲンにはある。ただ、これはオランダから行ったものではないと僕は思ってますけれども、スカンジナビアの一部とオランダにある。それからイギリスははっきりしてまして、18世紀にオランダから伝わってます。それから後はジャワ、つまりバタヴィアなんですよね。つまり、これは先程言いましたようにバタヴィアをオランダ人が建設した1819年の時点でオランダは瓦を持ち込んだ。それまでにジャワには瓦がなくて草葺きです。あるいは平葺きのもの、C型のようなものはありましたけれども桟瓦は少なくともない。その証拠も後でお話すると分かります。
 この中で特異点は日本なんですね。つまりスカンジナビアとフランドルの関係もわかる。ジャワとオランダの関係も分かる。そうすると日本は何なんだということになります。ここで何らかの連絡があったというふうに考えるのは、それほど地理的あるいは時間的にいって不自然ではないというのが、この研究の仮説の大きな問題を表しているわけです。
図2.1 E.S.モースによる瓦の形状分類

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 3.日本桟瓦構法の起源 
  日本桟瓦構法の起源に移りますけれども、これはもう皆さんご存知でしょう。日本史の試験問題に「日本桟瓦は17世紀に日本人が発明したものである」というのが正解として出題されたことがありますが、それはたぶん太田博太郎先生の『桟瓦葺きについて』という小論を基にしているんだろうと思います。この論文には伊東忠太が引用した『西村由緒覚書』を紹介しています。そこから日本桟瓦の元はどういうものであるかということを考察していきたいと思います。
  桟瓦の発明は、近江三井寺の瓦職人・西村五郎兵衛(半兵衛)が1674年に火除け、雨仕舞いのいい瓦を日夜考えているところに夢見があって、思いついてこれを作ったという記録があります。これが記録による唯一の記述であって、この時期に近い頃成立したと考えられる一つの根拠であるという紹介をされていますが、実は発明されたと言うけれども、その後西日本ではいっこうに現物が出てきていない。つまり、それほど広がっているわけではないわけです。とりあえずその時期に桟瓦ができたのではないかというようなことが言えるんですが、但し、その時の桟瓦が今我々が知る桟瓦の形をしていたかどうかということについては疑問のようです。
  当時は、奴桟瓦、目板桟瓦、蝋燭桟瓦(図3.1〜3.3参照)というものがあったようです。奴桟瓦は桟瓦の切り欠きの片方だけが大きくて、片方しか付いてないようなものです。それから目板桟瓦は(図3.2は一番上の線が一部消えているので付け足してほしいんですけれども)、瓦の端に桟を貼り付けてある形のもので、桟瓦と非常に似ています。それから蝋燭桟瓦のように桟が付いていて、もう一方隅を包み込むような形状のものもある。
これらの前後関係は、ある地域では17世紀に出てきたようだし、西村半兵衛も1674年に使われたという記録もあったり、それの信憑性は僕には判断できません。それよりもう少し後だったという記述もあるのですが、大体17世紀にこういうものが出始めたと考えていいのではないかと僕には思われます。
  これらの桟瓦的なものの多くは九州で開発されています。九州でまず古いものが見出されている。それは一体何を意味しているのか。この桟瓦に関しては一つの文献を除いて、十分な証拠をつかんでいないのですけれども、この頃に同時多発的にいろいろなアイデアが出てきたということが考えられる。何故その地域に同時多発的に出てきたのかということに関しては、日本の市民社会の発展、経済の発展という背景もあるでしょうけれども、そこにオランダとの交渉を考えてみても荒唐無稽ではないと思われるわけです。
図3.1 奴桟瓦 図3.2 目板桟瓦
図3.3 蝋燭桟瓦

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 4.オランダにおける桟瓦の成立 
 次に、オランダの桟瓦がどのように発展していったのかということをお話したいと思います。
 図4.1〜4.4はオランダの中世以前の古い瓦です。ただオランダでも自分のところで瓦を作り始めたのは比較的新しくて11世紀以降なんです。それまでは地中海の瓦が使われていたし、あるいはテラ・コッタの瓦ではなくて、スレートとか草葺きとか、そういう瓦ではない屋根材料が使われていたと考えてください。
 原形になっているのはローマのテグラ(Tegulae)です(図4.1)。これは石であったり、テラ・コッタであったりするんですけれど、チャンネル状の平たいものがあって、そこに被っている瓦という形態のものです。
 図4.2のdaktegelのtegelはタイルと同じ語源のものだと思います。dakは屋根です。これは後ろにも引っ掛けの突起を持っていまして、こういう平瓦でシングル状のものが古い形としてあります。
 それからもう少し性能の良いものとしてはonder-en-bovenpannen(図4.3)。onder(下)、en(and)、boven(上)、pannen(瓦)ですから、下上瓦という本瓦に似たような原理のもの、あるいはローマのTegulaeに似たような原理のものが現れるんですけれど、これが12、3世紀以降のものです。
図4.1 RomaのTegulae 図4.2 daktegel
図4.3 onder-en-bovenpannen 図4.4 onder-en-bovenpannenの仕組み
 ただ、この古い瓦に一つオランダ的な特徴があります。それは何かというと、地中海は雨が少ないですから勾配が非常に緩く、通常22度ですけれど、オランダは雨が多いですし、雪もあって、大体50〜60度という屋根勾配にしていまして小屋裏を使っています。だから垂木の上にかなり太めの桟を打ち、それに最初から引っ掛け桟として瓦が成立している。だからonder-en-bovenpannenは、世界的に分布しているものと比べても、ポルトガルやスペインなど地中海のものは爪がない(引っ掛けがない)タイルですが、オランダのものは最初からここに爪が付いて成立しています。それからメスの方ですね、下の方のやつに切り欠きが付いてまして、雄瓦の頭のところの、竹の節のようなものが引っ掛かるようになっています。その一方で上の方にも突起が付いていて、それが上の瓦を押さえている。これもやはり引っ掛け桟の構法で、急勾配で、雨量の多い所の独特の構法として成立してきているんですね。
 これが12、3世紀以降からの瓦(写真@)です。
 holle panというオランダの桟瓦−holleは「中空の」とか、「波形の」という意味で、波形の瓦ですが、これが16世紀初頭(1530〜1550年頃)に現れてきます。
 では、それを繋ぐところに何があったかというと、結論的に申しますと、オランダの北部でquackpanというのが出てきます(図4.5)。これは非常に限られた時代にしかないもので、大体1480年〜85年前後のものが見出されます。原理的には先程の上下(オス・メス)合体したようなもので、オスとメスの2枚分と互換性がある。ちょうど谷に相当するところに釉薬がかかってます。オランダは寒いせいか、凍結対策としてか釉薬がかかっているんです。先程のオス・メスのものも寒いところのものは釉薬がかかっています。(写真A)
 僕に瓦をくれたデ・フリースという人によりますと、これがオス・メスのものとholle panを繋ぐミッスィングリングの中間にあるものだと言っています。僕がたまたま戦前の日本の瓦を持っていたり、そういう文献を読んでいたりで、話をしているうちに何か感激して、この人はオランダの考古学研究所の研究員なんですけれど、2枚しかない瓦の1枚を僕にくれました。これは非常に貴重なもののようです。
 それで、まず桟瓦以前の瓦、ここにdaktegelとありますが、これは平瓦でタイルの、古いタイプのもの。それからオス・メスのonder-en-bovenpannenという上・下のもの。これらの分布を見てみますと、昔のオランダ(フランドル・ネーデルランド)の地図で、エイセル川(オランダ北東)流域。これがオランダの桟瓦を産んだ地域です。もう一つはライン川の支流であるマース川。ここがライデンとかロッテルダムとかデルフトとかに近い川で、この2地域があります。
 そうすると、オス・メスの上・下のものは北東で、それからdaktegelという平瓦は南西の方です。ヨーロッパの文化は大体南から北に及んでいくという向きを持っていますが、こと桟瓦に関していうと、実は上下瓦はまずエイセル川で作られて、それからそれがquackpanという中間的な形態になって、holle panという桟瓦もどちらかというと北東から南西の方にある期間的なズレをもって伝わってきてますので、基本的にはオランダ桟瓦というのは、エイセル川流域で生まれてきたものが南西に広がっていったというふうに考えてよろしいかと思います。
 holle panの発生の時期ですが、カンペンというエイセル川河口域の土地で見出されたものが1526年で、一番古いということが文献上明らかにされております。
 ではオランダの桟瓦というのは、エイセル川流域だけで作られたものなのか。どうもそれも違うようでして、実はここにもう一つ同時期のもの(写真B)、これはドイツのもので非常に重いんですけれど(図4.8 Hildesheimer pan)、Hildesheimという土地で見出されたタイルで、原理的には似ています。引っ掛けの突起があって、桟の部分があって、一部割れているんですけれど、片側が立ち上がっています。
 このquackpanもHildesheimerも、過渡的なものであるという仮説的な位置づけですが、この両端に切り欠けがないんです。だから重なるところがまだ工夫がないんですね。これはドイツのサクソンという地方です。
 オランダの桟瓦と日本の桟瓦の関係を見ますと、オランダの方は斜めに切ってあるだけですが、日本のは四角の切り欠きになっている。だからオランダにもこういうものがあったら、日本の桟瓦により近いというものの証拠になるかなと思います。これを見た時に僕は感激しまして、見惚れていたらくれたんです。日本のものと同じように見えるんですけれど、ただ片側にしかないんですね。では一体どういうことか。これは非常に分厚くて重たいものです。だから焼成の精度からいっても重ねていくことがどのくらいきちんとコントロールされていたのだろうか。皆さんご覧になったら少し実感をお持ちになれるかと思います。
 これが大体のオランダの桟瓦の成立の過程です。まとめて言いますと、15世紀末位に過渡的な発明があって、そして16世紀の前半にオランダの桟瓦は成立しました。初期のオランダの桟瓦はこれよりもう少し大きくて、長くて、重いというものだったんですけれど、職人さんの賃金が(レンガも同様)1枚いくらという施工単価で計算されるらしく、職人が強くなってくると瓦(レンガも含めて)がどんどん小さくなっていったという経緯があるようです。ですからサイズは全般的には少し短く小さくなって、うんと小さいものもありますが、現在の改良型の瓦はほとんど同じ寸法です。
図4.5 quackpan 図4.6 holle pan
図4.7 platte 図4.8 Hildesheimer pan
図4.9 platte pan
写真@ 写真A 写真B

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 5.日蘭の桟瓦構法の比較 
 日本の桟瓦との比較になりますが、図5.1日本桟瓦の切り欠き位置と形状、図5.3オランダ桟瓦の切り欠き位置と形状をご覧下さい。オランダの桟瓦と日本の桟瓦は、まず波形をしていること、そして雨仕舞いの重ねのところ、切り欠きが両方ともキチッとあるというような、根本的に似ているところがあります。
 相違点としては、まず一つは日本の瓦は土葺きであったけれど、オランダの瓦は最初から引っ掛けであった。それから勾配が違ってまして、日本は4寸、5寸という緩勾配でしたが、オランダはもっと急な50度、60度というような勾配が成立しているというところが違います。
 それからこれは後で皆様方にヒントをいただきたいと思いますけれども、オランダの瓦は桟が右に付いているんです。日本の瓦は標準的なものは桟が左に付いてる、ということで違います。ただ、このHildespanは右桟といいますか右葺きといいますか、そういう形状をしているんですね。そしてこれがオランダから外国に伝わっていった時も右・左の違いがありました。これは何かということを考える必要があります。それが3番目です。
 それから最後に切り欠きのことで、日本は四角形、オランダは斜めという違い。どっちが調整しやすいか、原理的に同じなのか違うのか。これは詰めていく必要があるんですが、一応相違面を含めた上で、瓦の伝わりようというものを見てみようというのがこの流れです。
図5.1 日本桟瓦の切り欠き位置と形状
図5.2 奴桟瓦の切り欠き位置と形状
図5.3 オランダ桟瓦の切り欠きと位置と形状

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 6.桟瓦工法伝播の可能性 
  日本とオランダの瓦構法のつながり方というところに移りたいと思います。
  17世紀のオランダ植民地を見ますと、だいたい海辺につくられています。モルッカ諸島、バタヴィア(ジャワ島)、それからボルネオの周辺、マラッカの要所です。
 フィリピンは、スペインがメキシコのアカプルコから来て押さえましたから、メキシコ副王の幹部になってますけれど、これは1570年です。
 それから台湾の台南にゼーランディアという、北東オランダの島名を使った都市の建設をやっています。こういうところにオランダの拠点はあります。
 一方、日本人が鎖国以前にどういうところに出ていたかということですが、鎖国以降そんなに急に帰ってくるわけはないし、中国と通商をやっていますから、絶対何かあっただろうと思います。厳しく取り締まられたことも事実なので表立った交渉はないという言い方もありますが、いろいろな文献、著作で、非常に多くの日本人が鎖国以前、東南アジア中に散って通商活動、その他をやっていたとあります。あるいは山田長政なる人物も出てくるというようなことがあります。これがあっという間に鎖国の時期に縮小されて関係を断たれるわけですが、その辺りは年表に簡単に記してあります(表6.1)。
 オランダ人が最初にジャワ島に来たのは1596年、リーフデ号が豊後に漂着したのが1600年、オランダ連合東インド会社が設立したのが1602年、1609年に平戸の商館、1619年にバタヴィア市の建設。オランダ東インド会社のアジアの拠点はバタヴィアにありますから、日本の平戸・長崎の元締めはバタヴィアでして、記録は全部そこにあります。
 それからタイオワンの建設が1624年。その後すぐに日本の長崎奉行その他がタイオワン事件というのを画策しまして、かなりの影響力を与えるわけです。その後、鄭成功といった人たちが出て、タイオワンを救っていく。1661年には追放され、オランダは台湾の執権を失っています。
 オランダ商館は、平戸の方は松浦藩主が建てて使わせたものですし、長崎のは長崎町民が建設を課せられて建てたもので、日本の建て方をしてありますが、1637〜39年にはオランダの仕様で2棟の石造倉庫が建てられています。それも復元があります。そこに瓦が使われていたかどうか分かりませんが、それも検討をしてみたいと思います。
 1641年に平戸の商館が取り壊され、全員長崎に移転させられて、ここで鎖国は完成します。オランダ船の往来の記録を見てみますと、1600年代は年間10隻といった感じで日本に入ってきていますけれど、1700年以降は、一つはオランダが弱かったということもあるでしょうし、貿易のこともあるでしょうけれども、年1、2隻と非常に低調になっていきます。
 オランダは鎖国の時期を通じて唯一、西洋との接点を作っていたわけですけれども、平戸の商館は少なくとも構法としては日本の構法で、日本の職人が作っていますし、オランダの技術も幕末ぐらいまでは入ってこない。ですから平戸の石造倉庫が建設技術の交渉があったとすれば唯一可能性がある、ということのようです。
 その間、1653年タイオワンからバタヴィアへ「瓦4,000枚」が送られています。これは『バタヴィア城日誌』(平凡社)という抜粋が出ているんですが、この年に台湾のゼーランディアから中国瓦かオランダ仕様のオランダ桟瓦か分かりませんが、バタヴィアに瓦4,000枚が送られています。
 普通逆に思うんですけれど。何故かというと、この時英蘭戦争がありまして、オランダ船は当然バタヴィアに来れないはずですから、バタヴィアの建設資材もなくて、台湾のゼーランディアから東インド会社の仕様で作られたものが送られてくるということではない、と僕は思います。

 オランダの倉庫は、平戸のオランダ商館が日本に発注して、「これこれのものを建てた」、「どういう寸法の木材を何本発注した」という記録が残ってまして、それによって基礎から復元されています。
 これは石造でして、オランダ商館の世界中の標準的なものに復元してあります。巻き上げ機が付いてたりして商館の倉庫に相応しいようにしてあるんです。ブランケットという腕木を持った構造がありまして、これはオランダのこういう種類の建物の標準的な構造なんです。だから今のアムステルダムとか各地のオランダ東インド会社の同様の建物もオランダ商館はこういう構造をしています。ノルウェーにもありますし、残っているバタヴィアの倉庫もこういう構造をしています。
 問題は屋根です。オランダのデンハーグというところにVisという建築家がいまして、この人がオランダ植民地時代の復元をいくつかやっていたので、会って話を聞いたんですけれど、最初はオランダの瓦が当然使われていたんだろうと思って、もっと急勾配の屋根をしてたというんですね。ところが先程の発注の記録を見ますと、瓦は26,555枚。どうもu当たり18〜20枚という、一般的なオランダ瓦では計算が合わない。ちなみに桟瓦は30枚、uではそういう数字にならないようなんです。もう一回検討してみますけれど。Visさんの根拠はオランダの桟瓦だと30枚程度になるということです。
 一般的なオランダ瓦では計算が合わないということ、これを根拠にたぶん本瓦だったのではないかということで、勾配を低くして模型を作り直したようです。当初の発注元は平戸市役所でしたので、この図面と模型を平戸市役所に納めたというようなことを言っておりました。
 それで日本との関係ですが、文献から見ますと、日蘭交渉史というようなものには、オランダから直接瓦が入ってきたという証拠はない。積み荷の記録も分からないと言いましたけれど、入ってきていません。オランダの商船、V.O.C.の積み荷というのはもちろん戦争のところと、ちょっと寄港できないところと、いろいろなところがあるんですけれども、オランダ東インド会社の人が公式に使ったスペースは一部でして、あとは私的な貿易のためのスペース、それからバックの要人たちが個人的に発注したもののスペースということで日本にはあまり重たいもの、かさばるものを積んでくる余裕はなかった。あるいは、日本にはもう瓦はある、別にオランダやバタヴィアから持ってこなくてもいいというのが大きな理由だったと思いますけれど、現物としては、オランダから瓦は入っていないようです。レンガも殆ど入っていないようです。1、2個みつかったものを見ましたけれど、どうもオランダではなく台湾で作られたレンガのようだというふうに資料には書いてあります。建築用具として持ってきて、たまたま紛れ込んだぐらいで、瓦も入っていません。
 それからオランダの中には、大工の棟梁みたいな人が技術員として紹介員の中にいたという記録はあります。だけど、この人は実際に瓦を焼いたり作ったりすることはしていない人で、例えば石造倉庫を作る時の監督だったろうと。少ない可能性としてはこういう人たちが「オランダの瓦はこんなかっこうをしてて、ここを引っ掛けて、もっと軽く、安く」といったようなことを言った可能性はあり得るというぐらいの想像はつきますけれど、直接的にものが入ったということはないのではないかというのが、我々、文献やものから確かめ得たところのオランダ桟瓦の日本への伝播です。
表6.1 日本、オランダ、東南アジア関連年表

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 7.旧オランダ植民地における瓦・屋根構法 
 では、他の植民地についてはどうかということを簡単にお話してみたいと思います。
 まず、バタヴィアのあるインドネシアなんですが、これは直接入っています。それから積み荷の記録もあります。バラストで入ってる。レンガは少ししか入ってない。この切り欠きも同じですが、ちょっと薄いです。右桟で、オランダの瓦と全く同じものです。
 それからChinese pan-tileと言っているんですけれど、ちょっとHildesheimに似たようなものもあって、これはどういう経緯で、いつ頃入ったものか分かりませんけれど、古いものです。桟瓦としてはちょっと切り欠き的なものはありますけれど、たぶんこれは基本形として一番たくさん使われている。ただ、民家とか軽微な建物は、インドネシアも雨が多いですから、かなり急で、引っ掛けがついています。ただ雨が漏りますので、植民地時代の19世紀末〜20世紀になって建てられたしっかりした建物の屋根はみんな別の屋根になっていまして、プレスをしたもの、例えばシングル状のものとズラして使ったりするんですけれども、この種のものがあるとか、あるいは先程のより新しく改良されたholle panというようなものに替わっています。だから庶民の建物とか倉庫のような軽微な建物にオランダの桟瓦が使われているようです。
 オランダに行った時に、もう少し直接的な証拠として、オランダの建築史の先生からもらった資料なんですけれども、ジャカルタ市の博物館にその老先生が1960年代に訪ねた時に見つけたという桟瓦の形状を上で均す型です。興味を持ってスケッチをしておいたんです。真鍮製だったと言ってます。アムステルダムで1705年に作られたという刻印があったんです。だからインドネシアのタイルというのは形状も酷似しているし、初期はオランダから直接持ち込まれただろうけれども、オランダの技術で、オランダの規格で、あるいは建築の方法は少しは変えているかもしれませんけれども「作られた」という直接的な証拠が見つかりました。
 他に厚みを測る型みたいなものもあったそうですが、オランダ植民編建築史の大先生なんですけれども、「その次に行ってみた時にはなくなっていた。誰かが持ち出したらしい」と話されていました。
 それから技術が伝わっているということは、特に日本との関連においてなんですけれど、もしバタヴィアみたいなところを経由して伝わっているのだとすると、日本も最初の4枚づくりとか、裏に布をあてていたりとかいう瓦の製法が1枚づくりになった時に、何回かのクリティカルな変化はしてると思います。
 インドネシアではどういうふうに作っているのかというと、土を踏む→こねる→針金で欠き落として平らにする→叩く→棒で均す→オス型に粘土板をのせる→粘土の表面に油を塗る→メス型をかぶせる、このへんがちょっとプレスっぽくなっていて違うかなという感じがするんですけれど。型を合わせて踏みつけて表面をなぜる。
 日本のものにちょっと似てる感じがするんですけれど、こういうのはもう少し事例を集めてみないと何とも言えないし、ジャワの作り方が日本に来ているのか、オランダの作り方が日本に来ているのか、あるいは関係があったのか、もう少し調べてみて、たぶん直接的にはあまりないと思うんですけれども、このへんは趣味的にもう少しやってみてもいいんじゃないかと思われる点です。
 僕はその他いくつか旧オランダ植民地の屋根構法を見てみましたけれども、例えば、ケープタウンは1660年前後に建設されています。バタヴィアから職人が連れられていってますから、当然ここにはオランダの桟瓦が見出されていいはずなんですけれど、ありません。平屋の陸屋根です。町家は陸屋根で、屋根は使われてない。防火ということと、粘土がないというようなことが影響しているかもしれません。テーブルマウンテンみたいな石のゴツゴツしたところですから。
 それからセイロンは、伝統的なセイロンの王朝の主要な建物に使われているのは、ホームベースのような格好をしていて後ろがちょっと折れている。引っ掛けなんですけれども全面的に桟が折れ曲がってあって、ふんどしみたいに垂れているのをシングル状に重ねていくというようなものです。それは今の建物には使われておりません。それから桟瓦も使われてません。代わりに何があるかというと、上下の、本瓦みたいなポルトガルの瓦がありまして、結論的にいうと、例えばこのマラッカ、セイロンのように以前にポルトガルが入植していてポルトガルの建築技術が入っていて、それが中国人なりアジアの職人達に伝わって、十分に安定してあるところにはオランダは瓦を持ち込んでいません。それから建築の形が違います。
 では何故ジャワかということですが、まずジャワはポルトガルの植民地ではなかった。現地に直接オランダが入ってきて、オランダはオランダの建築技術を使わざるを得なかった。まだその時ポルトガルの周辺植民地は占領しつくしてないというような事情で、バタヴィア、ジャワにはオランダの桟瓦が伝わった。オランダは小さな国ですし、現地人と積極的に混血をするような人種ではなかった。職人をたくさん連れていくようなこともしなかったし、技術者を連れていくほどの余裕もなかったので、まあ技術が既にあればそれ(ポルトガルの技術)を使ったと。従いまして、アジアの建築技術や建設資材の名前はポルトガルがかなり強く残ってます。

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 8.総括 
 以上を日本に即して考えますと、日本には技術もあったし、それから松浦藩にせよ、長崎奉行にせよ、町人にせよ、交易に関することで利益をこうむるということで、建設に対する技術の仕組みもある。従って、倉庫の壁体に、あるいは骨組みはオランダの仕様でつくられたとしても、瓦についてはやはり日本のものが使われていたんじゃないか。それから日本の本瓦や桟瓦の製造加工技術、そんな古いものを見たわけではないですけれども、加工の技術を見ますと、やはり精度やその他はかなり高い。焼成温度も1,000度くらいのようです。還元のいぶしのものもあり、黒と赤と両方あります。従いまして、完成したもの、あるいは現物としてオランダから日本に桟瓦が伝わった可能性は非常に薄いと思います。
 しかし、日本の都市あるいは建築というものが、防火や、もっと軽い屋根や、雨仕舞いのいいものが普及していった時に、オランダでこういう波形のものが使われているんだよというようなものをヒントにして、日本独特の桟瓦を開発していった。そこにメーカーとか、桟瓦とかが現れる理由があったと考えてもおかしくはないというふうに僕は思っています。
17世紀というのはそういう時代であったし、我々が今考えているよりももう少し想像より実際に伝達するような時代ではなかったかというふうに考えたいと思います。以上、少し長々とお話しましたけれど、今日はありがとうございました。

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